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邦画が見せるスクラップ&ビルド―『シン・ゴジラ』と『君の名は。』が重なった奇跡

※本記事は2011年3月11日の東日本大震災について触れています。



こんにちは。猛暑が続く日本列島ですが、愛知県では少しずつ夜や朝が涼しくなってきた真夏も終わりにむかっているのかなと感じます。

この夏公開された邦画『シン・ゴジラ』と26日から公開された『君の名は。』を観てきました。どちらも素晴らしくて前者は4回ほど、後者はまだ1回ですがもう1回は観てきたいなと思っています。


どちらもアニメ畑の監督さんですが『シン・ゴジラ』は実写で、『君の名は。』はアニメーションでそれぞれのやり方で日本の「スクラップ&ビルド」を描いたと個人的には感じました。そしてどちらも監督さんのそれぞれの、まさに「集大成」といえる、文字通り一球入魂のこれでもかとお二人の作家性やアイデアがぎゅぎゅっとつぎ込まれた作品でした。この2作が同年同時期に公開されたなんて本当に奇跡としか言いようがありません。

この2作の個人的に好きというか素晴らしいなと思うのは「スクラップ」と「ビルド」を真っ向から表現し、さらにカタルシスのあるエンターテインメントに昇華させていること。今の日本だからこそ生まれたのかもしれませんね。

※ここからはネタバレがあります。












―「スクラップ」2つの作品で描かれる絶望と断絶―

タイトルに「スクラップ&ビルド」といれましたが、何からのスクラップ&ビルドか?それは東日本大震災からの、だと思います。両作品とも「ゴジラ」「彗星」の形を借りて未曾有の大災害が劇中で起こります。ゴジラは東京を壊滅させ、彗星は三葉の街を消し去りました。特に後者はそんな話になるなんて微塵も思っていなかったので、かなりの転調、ショッキングな展開でした。


『シン・ゴジラ』は「現実(ニッポン)VS虚構(ゴジラ)」をキャッチコピーにゴジラが実際に東京に現れたら日本はどう対抗するのか?という臨場感あふれるシミュレーションな風味となっております。

ゴジラの恐ろしいところは想定外おじさんよろしく、まさに規格外のパワーを見せつけたことです。最初はあの震災時を彷彿とさせるようなといったら失礼ですが、いわゆるステレオタイプ的なおっさんたちが悉く後手後手に回りゴジラにいいように街を破壊させられるわけです。でもだんだんこなれてきて、備えも心構えも万全になってきたところであの第4形態なんです。そしてあの圧倒的パワー。エヴァンゲリオンでもちょいちょい言われていますが、人知の及ばないものの恐怖、絶望は本当にすさまじい。

僕だけでなく、多くの人がフィクションということを忘れて(特に都民の人は)「もうやめてくれ…」とゴジラに思ったはずです。


『君の名は。』はゴジラとは対照的に、滅多に近づかない彗星が日本に最接近します。これは新海誠監督の真骨頂というべき、本当に本当に美麗な映像です。だから物語序盤ではこの彗星が例えばタイムリープや瞬間移動などのSF的何かになるのかな?ぐらいに軽く見ていたのですが、実はその彗星が予期せぬ動きをとり、岐阜県のある街に墜落、500人以上が住む街を一瞬にして消し去るという信じられない大災害となります。

これはもうマジで後ろから頭を殴られたかのような衝撃を受けましたよ。ええ。物語的な絶望もそうですが、神木君演じる東京に住む瀧からしたら、夢のような美しい風景なわけです。だけど三葉や町の人はみんな一瞬で死んでしまった。瀧はその事実を消化するのに実際に三葉とつながった3年後に初めて意識するわけです。これは震災時やそのあとに感じた「断絶」に似ているなと思います。


自分の話で申し訳ないのですが、少しだけ3.11の話に変えます。僕は実際に東北地方で被災したわけではありませんので、本当に何も言う資格はないのかもですが、あの日は横浜スタジアムで友人と野球観戦をしていました。突如強い揺れを感じて試合は中断。震度は5弱だったそうですが、初めての経験でしたし、僕の真後ろ方面にある外野の照明がぐらんぐらん揺れてて、本当に落ちてくるんじゃないか、でも人がひしめく狭い外野席では逃げ場もない、だから本当に怖かった記憶が今でもあります。


そして横浜スタジアムのビジョンに映し出されたニュース映像をみて場内は騒然となりましたし、僕らは帰宅難民となり一晩中歩き回りました。次の日からアルバイトもなくなり、本当に日常が変わってしまったあの感じが今でも忘れられません。


実際に揺れや被害がほぼなかった故郷(北海道)や西日本の友人と話すと当たり前ですがかなりこの震災について隔たりがあるんですよね。もっといえば当時都民だった僕らだって実際に大変な目にあわれた東北地方などの方々に比べたら、圧倒的に、埋めきれないほどの溝みたいなものがある。それが悪いといいたいわけでなく、理解したくてもしてあげられない、理解してほしくてもしてくれない、理解するふりをしてほしくないのにわかったようにふるまってしまう。そういうどうしようもできないという「事実」があったと思っています。「がんばろう日本」「つながろう日本」という合言葉の中で、実際には相当な「断絶」があった。僕は勝手ながらそう思っているところがあります。


『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は前者は絶望感を、後者はその後の断絶をそれぞれの世界観や「怪獣」に預けて真正面から描いている、そう思います。これには相当恐怖やリスクがあったはずなのですが、エンターテインメントとするうえでこの日本の「スクラップ」をしっかり描き切った。この点がまず素晴らしいと思います。これがクライマックスのカタルシスにつながってくるわけです。


―「ビルド」2つの作品で描かれる願いとカタルシス―

『シン・ゴジラ』の数々の素晴らしい批評(時には批判)を拝見すると「矢口はじめ政府の人間が有能すぎる」「途中から現実と虚構が入れ替わる。つまり有能な人々(虚構)とゴジラ=目の前の大問題(現実)」というレビュー、考察が多くあるように思います。これはおおむね同意というか、これはきっと庵野監督の「願い」みたいなものなのだろうと個人的には勝手ながら推察しています。

「この国はまだまだやれる」「この国には官民問わず優秀な人材がいる」というセリフが出てきますが、僕はこれは決して虚構じゃないというべきか、間違いじゃないと思うのです。

『シン・ゴジラ』の想定外だったカタルシスとして、僕をはじめとして若者(だけでないと思うけど)が特に敬遠している(と勝手に思っていますが)日本の非効率なところやもううんざりだ!っていう価値観や行動が結実するところです。寝食を忘れて皆で知恵を出し合いながら残業する、家族の手料理を持参して朝から晩まで働く、電話や対面でとにかく頭を下げまくって生産ラインやアポイントを確保する、などなど。

だからといって明日から「よし俺も残業頑張るぞ」とはならないんですけど(笑)、偉大な軍人や大統領などの英雄が局面を突破するのでなく、みんなで力を合わせて集団で目の前の人知を超えた存在に立ち向かう。ある意味国際社会にも歯向かっている。その「集団」というのは歴史を振り返っても諸刃の剣だけれども、この日本的な立ち向かい方、考え方に希望が持てるような、そんな気がしてくるのです。

正直『シン・ゴジラ』はガラパゴスな映画だと思います。最終盤で赤坂が「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。今度もきっと立ち直れる」と言いますが、これはすごいいい言葉だなと思いますし、この官民問わず人知を結集して戦うさまは今後の日本の「ビルド」への願いなのかもしれません。


さて、『シン・ゴジラ』では「一般人の姿、心情などが描写されいない」という批判もあります。そんな『シン・ゴジラ』へのまるでアンサーソングのようにわずか1か月後に登場したのが『君の名は。』なわけです。もちろん『シン・ゴジラ』の内容を知る前からすでに作品は完成に向かっていたはずなので、示し合わせた内容ではありません。にもかかわらず、この2作品が同時期に公開されたのはまさに奇跡なわけです。

『君の名は。』ではある日から東京に住む瀧と岐阜に住む三葉が時々入れ替わるようになり、やんややんやしているうちにお互い少しずつ惹かれていくという、ある意味王道的なラブストーリな展開をしていきます。文字通り二人もその周りの人もっみーんな一般人(三葉の父ちゃんは唯一町長さんですが)。

もう思いっきりネタバレしますと、同じ時空で入れ替わってたと思っていた瀧と三葉は、実は3年物隔たりがあったわけです。瀧は2013年の三葉と、三葉は2016年の瀧と入れ替わっていた。そして彗星が降ってきたのは2013年。正直このアイデアはまじですごいなと劇中感動しました。

二人は入れ替わっている間のことを「夢」というのですが、彗星が降ってからその夢は終わりを迎え、そして夢から覚めると互いの存在を、まるで目覚める前の夢が思い出せない時と同じように少しずつ記憶からなくなってしまう。この儚さとそれを効果的に利用したミステリー風みな展開はまさに新海誠監督の集大成にふさわしい物語でしたね。

瀧は3年前にすでに死んでしまった三葉と会うためにあの手この手を使って過去改変を行おうとします。終盤、二人はついに出会い三葉は最後の過去改変に挑みます。でも名前はやっぱり忘れていく。それでも「もう一度会いたい」という三葉の強い願いがついに物語を大きく動かしていくのです。

断絶を実感し、それに絶望しながらも三葉にもう一度会うためにできることを納得するまで行う瀧、それを支える友人たち。それにこたえる三葉とその友人たち。この願いの強さからくる彼らの行動こそもう一つの「ビルド」なのだと思います。

『君の名は。』の「名前」は、例えば『シン・ゴジラ』で描かれなかった被災者(別に被災者じゃなくてもいい)個人個人に寄り添うためのこれ以上ないキーアイテムだったと僕は思います。とてつもない断絶と喪失を経験したとき、私たちはどのように自分たちを「ビルド」できるのだろう?そんなやさしさを『君の名は。』から感じます。

さて、『君の名は。』の終わり方は正直意外というか新海誠監督らしからぬ?と思いました。多分あの過去改変にはきっと賛否両論があるし、今までの新海誠監督作品なら山で二人がついに一瞬だけ再会した、あそこで終局(つまり過去改変は行われず三葉はやっぱり死ぬ)だったんじゃないかと思います。でもそうしなかった。ここにこそ新海監督の個人に寄り添う「願い」が込められているような気がしてなりません。



―改めて感じるフィクションの偉大さ―

これまでも僕が知らないだけで震災やそこからの立ち直りを描いた映画はその他エンターテインメントは多くあったのかもしれません。ただ震災から5年、こうした作家たちの一球入魂のエンターテインメントが出てきたことはもしかしたら邦画界の潮目が変わるのかもしれません。

やっぱり、映画はエンターテインメントしてなんぼなんですよ!ってつくづく感じました。そして魂こもったエンターテインメント=フィクションには間違いなくそれに触れた別の魂を揺さぶる力がある。それは元気が出ることもあれば、自分はこれでいいんだというような救いにもなるのかもしれません。


この2作品にはもっともっと語りたいところ(どうでもいいところも含めて)はたくさんあるのですが、邦画のスクラップ&ビルド、きっとこれからすごいことになっていくのではないでしょうか。


長文になっちゃいましたが・・・読んでくださった方、どうもありがとうございました。
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