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帰ってきた『ジェイソン・ボーン』 感想!

どうもです。

前回記事で『君の名は。』について、すごい考察でもするかのような大風呂敷を広げておきながら先に『ジェイソン・ボーン』の感想しれっとアップします(笑)。

まずですね、僕はマット・デイモン主演のボーン三部作はどれも好きで、ちょうど中学生~高校生くらいにかけてリアルタイムで観てきたこともあって、9年ぶりの新章となる今作も大いに楽しみにしておりました。

ちょうどAmazonプライム動画で前三部作が見放題ラインナップに入ってましたので見直したりしました。


しかも『ボーン・レガシー』と違ってまたポール・グリーングラス監督に戻るということで、ある程度安心してみられるかなあとという安堵めいた期待もあったので、結構ワクワクして封切日を迎えました。

と、いうわけで今回は僕の感想結論→好きなとこ、残念だったところ→次回作はこんな感じ希望的な感じでいきます。ストーリーの根幹にかかわるネタバレはありません。


1、『ジェイソン・ボーン』の感想

まずですね、点数で言うと65点くらいです。普通に1本の映画としては合格ラインというか、十分に面白かったです。なんか感じ悪い書き方ですが(笑)、やっぱーーり前三部作と比べると、うんまあ・・・みたいな出来上がりかなと。

端的に言うと、今回は前三部作のセルフリメイクなノリなわけなんですが、前三部作の良かったところは希釈されてしまい、もういいんじゃ的な食傷気味部分はむしろ濃くなっちゃった感がしてしまうんですね。

もちろん、さすがはポール・グリーングラス監督はじめ今作スタッフはボーンのいいところ、見せ所は理解されているので、JBが帰ってきたなあ!っていう感慨深さ、ニヤニヤ感は十分に味わえるんですけど、残念ながらアクション映画の歴史を変えたとまで言われる、特にアルティメイタムに比べると傑作とは言えないのかな?という印象。

では次から好きなところと残念だったところを羅列してみます。核心に触れるネタバレはありません。
※とはいえキャラの性格やぼかしつつもストーリーに若干触れるので、何も入れたくない人は見ない方が良いです!






2.ジェイソン・ボーンの好きなところ残念なところ

まず。好きな点から。

やっぱりマット・デイモンはかっこいいんすよ!まあある意味マット・デイモンのJBが見られた時点で満足度は高いっちゃ高いんですけどね。

もう昔のパスポート画像とか出ると「いやーJBもすっかり老けたな」と思うんだけど、相変わらずの格闘術、もったいない精神でそこらへんに落ちているガラクタで窮地を乗り越える感じとか、尾行をうまく巻いたり逆にあの手この手で返り討ちにしちゃう感じとかは本当に好きです。

あとマット・デイモンは表情の演技がすごく上手な俳優さんだなって改めて思いました。今作でも冒頭の一連のシーンで「ああまだ苦しいんだな」とか言葉としてなくても伝わってきますしね。つくづくジェイソン・ボーンは彼のはまり役であり、ちょっと007みたいに交代って今後なったらいやだなあと思う次第です。

※ちなみにマット・デイモン自身は今後ジェイソン・ボーンを若手に譲ることにも含みを持たせているようです。
マット・デイモン、ジェイソン・ボーン役を卒業することに抵抗なし(映画.com)


それと、今作から登場の新キャラたちもそれぞれ魅力的でしたね。特にアリシア・ヴィキャンデル演じるリーはとてもグッド!
コードネームU.N.C.L.Eでもずいぶん可愛らしいながらもあっといわせる役どころでしたが、今作では若くして超有能かつはっきりとではありませんが劇中徐々に味方になってくれる役どころ。まあ前三部作のパメラさんみたいなところでしょうか。

相変わらず美しいアリシア・ヴィキャンデルですが、今回はその凛とした感じとあどけなさが残る感じがいい意味ではまってましたね。若さゆえの無鉄砲なところや大胆さを兼ね備えながら要所では冷静沈着、でも可愛いんでつい黒い部分が垣間見えても許しちゃう感じ(適当)。次作以降もぜひ主要人物として登場してほしいところ。

あと、今回の「作戦員」を演じるフランスの名優ヴァンサン・カッセルも渋くてまさにアサシン!って感じで好みでした。ボーンシリーズの魅力の一つに彼を追いつめていく作戦員(時に狙撃したり奇襲をしたり)がいて特にアルティメイタムのデッシュは大好きなのですが、また一つ魅力的なアサシンだったなあと。

というわけで、「ジェイソン・ボーン」の魅力、超有能なCIA内の味方的な女性、相変わらず渋かっこいい作戦員という良いところは引き続き継承されているんですが、ここも継承してほしかった、いやもうこれはいいんじゃないすかー的な「残念」なところもちょくちょくありまして、今度はそれを列挙していきます。

まずジェイソン・ボーンについて。さっき褒めといてなんですが、前作までやってた「しれっと賄賂を現場のやつに渡して情報を得る」とか「何ヶ国語も駆使してしゃべる」とか「ちょっとツンデレ」なとこ(ニッキーに「きっと逃げられるさ」みたいなやさしさ)とかもうちょっとそういうのも観たかったぞ!と思う次第です。

あと、9年もブランクがあったからかでしょうか、微妙に敵をまくのが下手になってないかとか「お、それ使っちゃう」みたいなアイデアに欠けていたなあという印象。これは僕が前三部作を美化してるだけかもしれませんけども。

とにかくボーンは自分の持てるスペック(お札、言語、格闘などなど)をフル活用し、今ある最小限のものを最大限に生かせる男!なのですが、今作はその辺のニヤリとできるシチュエーションが少なかったのが個人的にちょっと不満でした。相変わらずの万引きスキルはすごいですが(笑)。

あと、前三部作でそれってもう吹っ切れたんじゃないんすか・・・とか肉弾戦が少ないとか色々残念なところはありました。

それとトミーリージョーンズ演じるCIAのお偉いさんも、もうそういうのはいいんじゃないですかーってキャラでしたね。演者自体はさすがジョーンズおじさんで素晴らしいのですが、ボーン三部作と比べてもマンネリ型のお偉いさんだし、この10年のスパイ映画に限らず使い古されてきたような設定・考えのおっさんで、そろそろこのシリーズ続けるにあたってそれは限界なんじゃないかなーという感じでした。

何より、彼の考えるある作戦が「それボーンシリーズでやっちゃう?」という題材なんですよ。これまでのボーンシリーズの黒幕たちの「作戦」て良くも悪くも我々視聴者への「ハッタリ」が非常に優れていたと思うんですよね。「CIAならそれくらいやるかも」「うわースパイってか殺人マシンこえー」的な。

そして、その「ハッタリ」を成り立たせるのが普通(少なくとも僕は)「CIA内部がどんな感じか知らない」からできる「リアリティ」だったわけです。例えば題材は全然違いますがジャンプ原作の「バクマン。」の編集会議シーンは、実際には誰もあそこの中で取材してないから本来ならあんな感じなのかはわからないわけです。でも「こんな感じかも!?」と思わせる「リアリティ」があり、製作者たちは見事に「ハッタリ」をかませていたと思います。

そもそも前三部作の殺人マシン養成プログラムなんて、ありそうもないことなんですが、「CIAならそれくらいやりかねないな」「CIAならそれくらいできるかもね」ってラインを絶妙に生かしていて、そしてそれがボーンの過去と密接に結び付き、そしてそれが敵役としてのCIA(一部)へのちきしょー感やボーンへの感情移入に大いに役に立っていたと思うのです。


つまり前三部作って「ボーンの自分探し」と「CIAのやばすぎる闇探し」という2つの謎ときが「一つの物語」として成立し、しかもそのリアリティ具合が「一般人は知らない」ラインだからこそ想像や妄想も掻き立てられてワクワク感が出たと思うんですよ。


まあ、これはネタバレじゃないよね?と思うので書くんですが、今回のその「作戦」がはっきりいって「超ありきたり」なうえに「無駄に壮大」でしかも「CIAじゃなくてもいい」、つまり我々一般人もある程度ニュースとかフィクションで見聞きしちゃっているテーマなんです。おまけに中途半端にボーンの「自分探し」要素まで無理くりねじ込んだのに、その「作戦」とあんましリンクしていない。だから「自分探し」=「CIAの闇暴き」だった前三部作と違い、本来ならそのテーマだけで映画2本になっちゃうような要素(「やばい作戦」≠「自分探し」)を無理くり一本にいれたんで、結局「一つの物語」にうまくなっていないんでアガラナイんですよねえ。


そもそもボーンの「自分探し」要素も「ええまだやるんすか」という感じも否めず、特に今回とってつけたような新しい忘れてた記憶は正直言って蛇足感が否めない。ジェイソン・ボーン自身が過去三部作で記憶は思い出したけどやっぱり・・・ってくだり、設定はありだと思うけど、「過去」を探す旅はもういらないんじゃないかなあ。その辺はクライマックスで解決してきたように見えたので、次からは「未来」を探す物語にしてほしいし、そうしないとジリ貧だと思います。


他にもなんでパメラ出てこないんだよ―――!ニッキー出すならパメラも出した方が面白くなりソーじゃん―――!とかmobyの主題歌は相変わらずかっこいいけど流すタイミングが前三部作よりださい!!とか(アルティメイタムのニッキーがニヤッとした瞬間にイントロが流れるのは本当にかっこよかったのに)。


色々言ってきましたが、とはいえ9年ぶりのボーン、新章立ち上がりとしてはまあこんなもんかな。相変わらずカーチェイスはじめアクションはいい部分も多いし、やっぱりジェイソン・ボーンのかっこよさは今後も観たいし、今回「新章始動」といいながらセルフリメイクだった感が否めない作風をそろそろ方針転換してほしいし、そうした仕上がりのジェイソン・ボーン次作をぜひ見てみたい!と思う次第です。

テンポもいいし、なんだかんだ手に汗握る展開でもあるし、もろにグロイシーンとかもないし、デートムービーにも野郎同士で観るのもよし、レイトショーで一人でじっくり味わうのにも向いていると思いますので、おすすすめはおすすめです。


3.次回作は今感じで!

勝手に僕が希望する次回作ですが、マット・デイモン続投!アリシア・ヴィキャンデルも続投!その上司か何かとしてパメラ復帰!「過去」ではなく「未来」を探す物語!こんな感じのボーン新作でよろしく!

『君の名は。』を「夢」から妄想するその1

※本記事は『君の名は。』について思い切りネタバレしています。今作はネタバレしないで、何も知らない状態で観るのが大正解な映画ですので、未見で興味がある方はすぐに劇場へ!






こんばんは。『君の名は。』が早くも38億円突破と大ヒットを記録しているみたいですね。

【国内映画ランキング】「君の名は。」初週を上回る興収でV2 (映画.com)


前回の記事でも書いたように僕もすっかり『君の名は。』にはやられてしまいまして、パンフレット買ったり、小説版を読んだりしています。

その中で、どうしても気になって気になって頭をぐるぐる巡っているのが、この物語における「夢」なんですよね。

予告編でも「いま夢を見ておるな」と婆ちゃんが言いますが、どうもこの物語で僕は「夢」(寝てるときに見る方)になんだかすごく興味が出ちゃって、本屋で「夢」について取り上げている本をいくつか立ち読みしたり買ってみたりしました。

といってもこのブログは別に学問について論じたいわけでないのですが、せっかくなので、99.9%妄想の中に、0.01%ほどお勉強したことを交えて、



①どうして瀧と三葉は入れ替わったのか?
②どうして瀧と三葉は○○を忘れてしまうの?
※念のためここでは伏字に




この辺りについて妄想垂れ流しをしてみたいと思います。長いので今回はとりあえず①のみです!


※改めてネタバレ注意!









①どうして瀧と三葉は入れ替わったのか?


「夢」について―参考文献からちょっとだけ勉強した話

この物語では予告編でもわかるように、東京の高校に通う瀧と、岐阜の田舎で暮らす女子高生の三葉が時々入れ替わってしまうというのが一番のSF要素です。そして二人とも最初はこの入れ替わりを「夢」だといいます。

三葉は初めて瀧に入れ替わった夢で憧れだった東京ライフを満喫し「よくできた夢やな」「私の想像力すごいな」といいます。

しかし入れ替わっていない時の周囲の後日の反応などで二人はこれは夢ではなく実際に入れ違っているということに気づき、日記を残すなどして少しずつ交流しつつ入れ替わり期間を乗り切っていくのです。

最近『夢の現象学・入門』(講談社・渡辺恒夫)という本を読んでみたのですが、そこで夢についておもしろいことが何個も書かれており、その中で「夢には仮定法現実がない」というのがありました。

僕もざっとこの本を読んだだけだし、そもそも現象学?何それ?な状態ですので堅苦しくあれこれ言わずに超雑に引用しますが、

(1)夢には反実仮想がない
「現実世界」では過去・現在・未来をそれぞれ想いだしたり(想起)、未来を予想したり(予期)するそうですが、「夢世界」ではこれらも仮想現実も何もかもすべて「現在進行形」として認識するんだとか。過去の事故の場面も、未来のテストに対する不安も「夢」ではすべて「いまこここ」のリアルタイム化されてしまうんだと現象学的には考えることもできるようです。

そして夢ではハリーポッターになったりカラスになったりすることもすべて「現実化」できる(「現実世界」で虎のマネをしても「自分は虎じゃない」ってわかりながら演じているけど、「夢世界」では本当に虎だと「現実化」される)ことが特徴で「思い浮かべている」んじゃなくて「今まさに経験している」ことが特徴なんだとか。

(2)「願望充足」と「シミュレーション」?
これまた難しいので全然理解しきれてないのであれですが、かの有名なフロイトさんが「願ったことが夢ではすべて現実化する」という「充足説」をとなえ、レヴォンスオという人は、例えば明日のテスト心配だー!とかそういう懸念などの「シミュレーション」が夢でも起こり得るんだと考えたそうです。うーん、なんだか大変だ。


書いてて僕も疲れてきたので、再び雑にこれらをちょこっとだけ参考にしながら「どうして瀧と三葉は入れ替わったのか?」について!です。一応この後もたまーに読んだ本の話は多分出るかも?です。



三葉が瀧に入れ替わった理由―都会のイケメン男子への憧れ!?説



まず三葉が瀧になった理由から考えてみましょう。というより瀧が三葉になった理由はいまいち僕はわからないからです(笑)。

いきなり大胆な仮説めいたものを提示しますが、彗星が落ちて二人の入れ替わりがなくなる、もっといえば瀧が糸守町へいき三葉がすでに死んでいることを「認識」するまでの間は、「夢」を見ていた(ようなもの)と考えてみます。


瀧が三葉になっているときに口噛酒をおさめに行くシーンがありますが、おばあちゃんが「お前いま夢を見ておるな?」的なことを言いハッとなってまた瀧に戻るシーンがあり、またクライマックスでもばあちゃんは「宮水家は夢で誰かと入れ替わることがある」的なことを言うので、これはある種入れ替わり=夢と考えてみることとします。
※ここで「夢」と考えてみることで、②「どうして三葉と瀧はお互いの名前を忘れてしまうのか?」という問いにも僕なりの答えを加えられるとも思います。


三葉が瀧に変身した理由は、上記の「夢の願望充足説」がベタですが自分的には結構しっくりきます。本人が思い切り「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」て叫ぶシーンもあるし、カフェへの憧れなど都会で暮らすことへの憧れがかなり強いと思われますし、ちょうど思春期でかつ「巫女」をやらされること、つまり「女子」であることにそれなりの、いや、かなり恥じらいや嫌気があったといえます。ここでいう「女子」は「宮水の巫女」というかなり狭い範囲でのスタイルではありますが。
※この辺りの心情は一人称で書かれている小説版がぜひにおすすめです!

映画版だけでなく小説版も読むとよりわかりやすいですが、三葉は瀧のルックスについても一定の評価はありそうです。というより三葉が思い浮かべる「都会」の「イケメン」「おしゃれ」のイメージが瀧だったのかもしれませんね。


上記参考文献の渡辺恒夫によれば、夢世界では妄想も現実化されるわけなので、三葉の言う通りよくできた想像がなんと現実世界に、でもある種の夢世界で実現されてしまったんだろうなあと。

ところで「三葉は瀧の時でも三葉としての自意識だから『夢』というのはおかしくね?」と思われるでしょうか。僕もそう思うのですが、一応夢の「入れ子構造」という解釈法もあるようです。まあ、よくわからないところでもあるのでこの辺は大胆にスルーしましょう!w


もう一つ、かなりオカルトな疑問ではありますが、お酒ってこういう題材にはすごい面白いと思いますね。今回瀧が三葉の口噛酒を飲むことでまた入れ替わりができたというシーンがありますが、そういえばコナン君も酒を飲んだら一瞬だけ工藤新一に戻れたって話ありませんでしたっけ?どうでもいいか。

つまり何が言いたいかというと、やっぱり「巫女さん」や「お酒」といったある意味超現実的なアイテムや記号が三葉の変身に寄与していたと考えるのが、これもまたベタと言えばベタな考察ですが気になるところです。何かこういう日本の伝承?神道?的なものに詳しい方に習ってっみたいものですが…


瀧が三葉になった理由―予言者としての役割?


先ほど参考文献の引用で夢の願望充足説のほかに「シミュレーション説」を紹介しましたが、瀧が三葉になったのは、彗星災害という未曾有の大災害を予言しシミュレーションして皆を避難させるという使命を与えられたもの=選ばれたものと考えます。


どうして瀧が?という問いはこれはもう「三葉の理想の相手だから」としか言えません。こう書くとなんだかとてもロマンチックですが、言い方を変えれば三葉の願望にがっちりとマッチしてしまったがゆえに切ない使命を負わされた大変な運命者とも言えますが…苦笑

三葉の婆ちゃんも遠い昔、知らない男の人と入れ違う「夢」を見ていたそうですが、もしかしたら宮水家は代々理想の男子像を体現するものと入れ替わる(変身できる)夢充足能力者なのかもしれません(なんじゃそりゃ)。


そして瀧が終盤で「もしかしたらこの災害を止めるためにこれまで入れ替わってきたのかも?」と考えますが、宮水家の理想の男子=巫女に選ばれし予言者としての能力を秘めた人なのかもしれません。実際瀧はすごい良いやつですし(適当)。


もうひとつ、タイムトラベルもの的に考察するなら、瀧と三葉の入れ替わりは実際には「3年」のずれがあったわけで、三葉が実際に思い切って瀧に会いにいあったのは2013年。でも当時の瀧は中学生で三葉のことなんか知らない。そして電車での「だれお前?」になるわけですが、ここで三葉から赤い紐をもらうわけです。


時系列だけで言えば中3瀧=知らない女の子に出会い赤い紐もらう→彗星大接近→高校生へとなるわけです。今作では「ムスビ」という概念がたびたび出てきますが、入れ替わりは3年後の2016年ことでも、二人は2013年にすでに結ばれていたのです。逆説的ですが、瀧が三葉と入れ替わったのは時系列的に「おかしくない」と僕は思います。



①の最後に―三葉の願いが二人を結び予言者を生んだ?

さて、今回は「どうして瀧と三葉は入れ替わったのか?」について長々妄想をしてきましたが、

2013年 三葉「東京のイケメン男子になりたいと願う」(巫女的にも成熟してきていた?)→「理想の男子」=「予言者」として瀧が選ばれる→瀧が三葉と出会い「結ばれる」→彗星の大災害→2016年 瀧高校生=三葉の思い描いた理想の男子となる→入れ替わり発生→三葉の願望充足と瀧の予言者(シミュレーション)が覚醒→そして「現実」へ

大雑把にこんな感じにまとめられそうです。②「どうして瀧と三葉は互いの名前を忘れるの?」という問いはこの「願望充足」と「予言者」としての2人の「覚醒」がポイントとなりそうです。次回はそのあたりをまた考えてみたいと思います。


うーん、もうちょっと心理学とか日本史とか民俗学?とかに詳しければなあと日頃の教養不足を嘆くばかり…とはいえこうして十人十色の妄想や想像をできるのがフィクションのいいところだし、この映画にはそんなヒントやアイテムがたくさん散りばめられていると思います。

邦画が見せるスクラップ&ビルド―『シン・ゴジラ』と『君の名は。』が重なった奇跡

※本記事は2011年3月11日の東日本大震災について触れています。



こんにちは。猛暑が続く日本列島ですが、愛知県では少しずつ夜や朝が涼しくなってきた真夏も終わりにむかっているのかなと感じます。

この夏公開された邦画『シン・ゴジラ』と26日から公開された『君の名は。』を観てきました。どちらも素晴らしくて前者は4回ほど、後者はまだ1回ですがもう1回は観てきたいなと思っています。


どちらもアニメ畑の監督さんですが『シン・ゴジラ』は実写で、『君の名は。』はアニメーションでそれぞれのやり方で日本の「スクラップ&ビルド」を描いたと個人的には感じました。そしてどちらも監督さんのそれぞれの、まさに「集大成」といえる、文字通り一球入魂のこれでもかとお二人の作家性やアイデアがぎゅぎゅっとつぎ込まれた作品でした。この2作が同年同時期に公開されたなんて本当に奇跡としか言いようがありません。

この2作の個人的に好きというか素晴らしいなと思うのは「スクラップ」と「ビルド」を真っ向から表現し、さらにカタルシスのあるエンターテインメントに昇華させていること。今の日本だからこそ生まれたのかもしれませんね。

※ここからはネタバレがあります。












―「スクラップ」2つの作品で描かれる絶望と断絶―

タイトルに「スクラップ&ビルド」といれましたが、何からのスクラップ&ビルドか?それは東日本大震災からの、だと思います。両作品とも「ゴジラ」「彗星」の形を借りて未曾有の大災害が劇中で起こります。ゴジラは東京を壊滅させ、彗星は三葉の街を消し去りました。特に後者はそんな話になるなんて微塵も思っていなかったので、かなりの転調、ショッキングな展開でした。


『シン・ゴジラ』は「現実(ニッポン)VS虚構(ゴジラ)」をキャッチコピーにゴジラが実際に東京に現れたら日本はどう対抗するのか?という臨場感あふれるシミュレーションな風味となっております。

ゴジラの恐ろしいところは想定外おじさんよろしく、まさに規格外のパワーを見せつけたことです。最初はあの震災時を彷彿とさせるようなといったら失礼ですが、いわゆるステレオタイプ的なおっさんたちが悉く後手後手に回りゴジラにいいように街を破壊させられるわけです。でもだんだんこなれてきて、備えも心構えも万全になってきたところであの第4形態なんです。そしてあの圧倒的パワー。エヴァンゲリオンでもちょいちょい言われていますが、人知の及ばないものの恐怖、絶望は本当にすさまじい。

僕だけでなく、多くの人がフィクションということを忘れて(特に都民の人は)「もうやめてくれ…」とゴジラに思ったはずです。


『君の名は。』はゴジラとは対照的に、滅多に近づかない彗星が日本に最接近します。これは新海誠監督の真骨頂というべき、本当に本当に美麗な映像です。だから物語序盤ではこの彗星が例えばタイムリープや瞬間移動などのSF的何かになるのかな?ぐらいに軽く見ていたのですが、実はその彗星が予期せぬ動きをとり、岐阜県のある街に墜落、500人以上が住む街を一瞬にして消し去るという信じられない大災害となります。

これはもうマジで後ろから頭を殴られたかのような衝撃を受けましたよ。ええ。物語的な絶望もそうですが、神木君演じる東京に住む瀧からしたら、夢のような美しい風景なわけです。だけど三葉や町の人はみんな一瞬で死んでしまった。瀧はその事実を消化するのに実際に三葉とつながった3年後に初めて意識するわけです。これは震災時やそのあとに感じた「断絶」に似ているなと思います。


自分の話で申し訳ないのですが、少しだけ3.11の話に変えます。僕は実際に東北地方で被災したわけではありませんので、本当に何も言う資格はないのかもですが、あの日は横浜スタジアムで友人と野球観戦をしていました。突如強い揺れを感じて試合は中断。震度は5弱だったそうですが、初めての経験でしたし、僕の真後ろ方面にある外野の照明がぐらんぐらん揺れてて、本当に落ちてくるんじゃないか、でも人がひしめく狭い外野席では逃げ場もない、だから本当に怖かった記憶が今でもあります。


そして横浜スタジアムのビジョンに映し出されたニュース映像をみて場内は騒然となりましたし、僕らは帰宅難民となり一晩中歩き回りました。次の日からアルバイトもなくなり、本当に日常が変わってしまったあの感じが今でも忘れられません。


実際に揺れや被害がほぼなかった故郷(北海道)や西日本の友人と話すと当たり前ですがかなりこの震災について隔たりがあるんですよね。もっといえば当時都民だった僕らだって実際に大変な目にあわれた東北地方などの方々に比べたら、圧倒的に、埋めきれないほどの溝みたいなものがある。それが悪いといいたいわけでなく、理解したくてもしてあげられない、理解してほしくてもしてくれない、理解するふりをしてほしくないのにわかったようにふるまってしまう。そういうどうしようもできないという「事実」があったと思っています。「がんばろう日本」「つながろう日本」という合言葉の中で、実際には相当な「断絶」があった。僕は勝手ながらそう思っているところがあります。


『シン・ゴジラ』と『君の名は。』は前者は絶望感を、後者はその後の断絶をそれぞれの世界観や「怪獣」に預けて真正面から描いている、そう思います。これには相当恐怖やリスクがあったはずなのですが、エンターテインメントとするうえでこの日本の「スクラップ」をしっかり描き切った。この点がまず素晴らしいと思います。これがクライマックスのカタルシスにつながってくるわけです。


―「ビルド」2つの作品で描かれる願いとカタルシス―

『シン・ゴジラ』の数々の素晴らしい批評(時には批判)を拝見すると「矢口はじめ政府の人間が有能すぎる」「途中から現実と虚構が入れ替わる。つまり有能な人々(虚構)とゴジラ=目の前の大問題(現実)」というレビュー、考察が多くあるように思います。これはおおむね同意というか、これはきっと庵野監督の「願い」みたいなものなのだろうと個人的には勝手ながら推察しています。

「この国はまだまだやれる」「この国には官民問わず優秀な人材がいる」というセリフが出てきますが、僕はこれは決して虚構じゃないというべきか、間違いじゃないと思うのです。

『シン・ゴジラ』の想定外だったカタルシスとして、僕をはじめとして若者(だけでないと思うけど)が特に敬遠している(と勝手に思っていますが)日本の非効率なところやもううんざりだ!っていう価値観や行動が結実するところです。寝食を忘れて皆で知恵を出し合いながら残業する、家族の手料理を持参して朝から晩まで働く、電話や対面でとにかく頭を下げまくって生産ラインやアポイントを確保する、などなど。

だからといって明日から「よし俺も残業頑張るぞ」とはならないんですけど(笑)、偉大な軍人や大統領などの英雄が局面を突破するのでなく、みんなで力を合わせて集団で目の前の人知を超えた存在に立ち向かう。ある意味国際社会にも歯向かっている。その「集団」というのは歴史を振り返っても諸刃の剣だけれども、この日本的な立ち向かい方、考え方に希望が持てるような、そんな気がしてくるのです。

正直『シン・ゴジラ』はガラパゴスな映画だと思います。最終盤で赤坂が「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。今度もきっと立ち直れる」と言いますが、これはすごいいい言葉だなと思いますし、この官民問わず人知を結集して戦うさまは今後の日本の「ビルド」への願いなのかもしれません。


さて、『シン・ゴジラ』では「一般人の姿、心情などが描写されいない」という批判もあります。そんな『シン・ゴジラ』へのまるでアンサーソングのようにわずか1か月後に登場したのが『君の名は。』なわけです。もちろん『シン・ゴジラ』の内容を知る前からすでに作品は完成に向かっていたはずなので、示し合わせた内容ではありません。にもかかわらず、この2作品が同時期に公開されたのはまさに奇跡なわけです。

『君の名は。』ではある日から東京に住む瀧と岐阜に住む三葉が時々入れ替わるようになり、やんややんやしているうちにお互い少しずつ惹かれていくという、ある意味王道的なラブストーリな展開をしていきます。文字通り二人もその周りの人もっみーんな一般人(三葉の父ちゃんは唯一町長さんですが)。

もう思いっきりネタバレしますと、同じ時空で入れ替わってたと思っていた瀧と三葉は、実は3年物隔たりがあったわけです。瀧は2013年の三葉と、三葉は2016年の瀧と入れ替わっていた。そして彗星が降ってきたのは2013年。正直このアイデアはまじですごいなと劇中感動しました。

二人は入れ替わっている間のことを「夢」というのですが、彗星が降ってからその夢は終わりを迎え、そして夢から覚めると互いの存在を、まるで目覚める前の夢が思い出せない時と同じように少しずつ記憶からなくなってしまう。この儚さとそれを効果的に利用したミステリー風みな展開はまさに新海誠監督の集大成にふさわしい物語でしたね。

瀧は3年前にすでに死んでしまった三葉と会うためにあの手この手を使って過去改変を行おうとします。終盤、二人はついに出会い三葉は最後の過去改変に挑みます。でも名前はやっぱり忘れていく。それでも「もう一度会いたい」という三葉の強い願いがついに物語を大きく動かしていくのです。

断絶を実感し、それに絶望しながらも三葉にもう一度会うためにできることを納得するまで行う瀧、それを支える友人たち。それにこたえる三葉とその友人たち。この願いの強さからくる彼らの行動こそもう一つの「ビルド」なのだと思います。

『君の名は。』の「名前」は、例えば『シン・ゴジラ』で描かれなかった被災者(別に被災者じゃなくてもいい)個人個人に寄り添うためのこれ以上ないキーアイテムだったと僕は思います。とてつもない断絶と喪失を経験したとき、私たちはどのように自分たちを「ビルド」できるのだろう?そんなやさしさを『君の名は。』から感じます。

さて、『君の名は。』の終わり方は正直意外というか新海誠監督らしからぬ?と思いました。多分あの過去改変にはきっと賛否両論があるし、今までの新海誠監督作品なら山で二人がついに一瞬だけ再会した、あそこで終局(つまり過去改変は行われず三葉はやっぱり死ぬ)だったんじゃないかと思います。でもそうしなかった。ここにこそ新海監督の個人に寄り添う「願い」が込められているような気がしてなりません。



―改めて感じるフィクションの偉大さ―

これまでも僕が知らないだけで震災やそこからの立ち直りを描いた映画はその他エンターテインメントは多くあったのかもしれません。ただ震災から5年、こうした作家たちの一球入魂のエンターテインメントが出てきたことはもしかしたら邦画界の潮目が変わるのかもしれません。

やっぱり、映画はエンターテインメントしてなんぼなんですよ!ってつくづく感じました。そして魂こもったエンターテインメント=フィクションには間違いなくそれに触れた別の魂を揺さぶる力がある。それは元気が出ることもあれば、自分はこれでいいんだというような救いにもなるのかもしれません。


この2作品にはもっともっと語りたいところ(どうでもいいところも含めて)はたくさんあるのですが、邦画のスクラップ&ビルド、きっとこれからすごいことになっていくのではないでしょうか。


長文になっちゃいましたが・・・読んでくださった方、どうもありがとうございました。

3年ぶりに『風立ちぬ』を観た話

いやあすっかりご無沙汰してしまいました。ブログをこつこつ続けるって大変なことですね(しみじみ)。前回の『エクス・マキナ』の後編の記事を書いていたら途中でPCがフリーズしてそのままやる気なくしてました(小学生並みの言い訳ですが)。

まああまり気張らずにのんびりやっていこうかと…

さて、先月末から話題沸騰の『シン・ゴジラ』を僕も7月30日に観てきました。とっても面白くて実に昨日までに4回劇場へ足を運んでしまいましたし、もう『エヴァンゲリオン』シリーズへの、そして庵野監督への興味も薄れ始めていたのですが、一気に庵野監督に惚れ直した次第です。

自分でもどういうわけかわからないのですが、『シン・ゴジラ』を観た後に無性に宮崎駿監督、そして庵野監督がまさかの主演声優という『風立ちぬ』を久しぶりに見たくなってTSUTAYAに駆け込んだわけですが…劇場で見た3年前に比べてどうもすごい感動してしまい、ネットで色々と記事や感想を調べたり、自分でも考察や妄想をしたりしまったので、これは自分の言葉で備忘録的に残しておこうかなと思ったわけです。

というわけで、今日は『風立ちぬ』について自分が気になった点などをざっくばらんに書き連ねる回としてみようと思います。

予告編





※ネタバレ全開です!!



「生きねば」について―カプローニの夢の王国―


本作のキャッチコピーで「生きねば」ってのがあって、劇場で3年前に観たときは「辛いことがあっても(あったけど)頑張って生きよう」くらいにしか思わなかったし、それも解釈としては良いと思うのですが、改めて見てみるともう少し掘り下げて考えられそうだったので、今回はそのあたりをふれられればと。

中でも久しぶりに見て気になったのは堀越二郎とイタリアの伝説の設計士・カプローニが「夢の中で」何度も巡り合うことです。

カプローニは物語の要所要所で二郎の夢の中に現れ、彼の後押しをする役目を果たします。例えば幼少のころの二郎の夢に初登場したときには彼に飛行機の設計士になることを後押ししますし、ゼロ戦を作るときに飛行機(イメージ)を最初にみせるのもカプローニ。そして終局、「君は生きねばならん」というのもやはりカプローニです。

僕はこのカプローニは二郎の「分身」であり、もっと言えば願望や希望の化身、あえて酷い言い方をすればその願望の言い訳が擬人化したものとも思えます。


―二郎少年の前に現れたカプローニ―
初めてカプローニが登場するのは二郎が子供の頃。カプローニは「近眼でも設計士になれる」「じき戦争は終わる。旅客機を作るんだ」と語り二郎少年を大いに元気付けます。

二郎少年はカプローニに出会う前に冒頭でも夢を見ていますが、二つのことが言えると思います。
一つ目は「目が悪い自分はせっかく飛行機が大好きなのに設計士になれないのではないか」
もう一つは僕の完全な憶測ですが「飛行機=兵器を作ってしまう、この夢はありなのだろうか」ということ。明確に二郎の夢に兵器が出てくるわけでも、二郎が戦争反対!と言っているわけでもないですが、二郎少年の墜落の原因となる謎の飛行船は軍用っぽいですし、爆弾?ミサイル?みたいな小型の飛来物も見えます。これは漠然とした二郎少年の不安(矛盾)を示唆しているのかなと。

※この辺は宮崎駿監督自身が兵器などが好きで魅せられているのに戦争は絶対反対といった複雑な葛藤や矛盾を持っていること自体の表れなのかもしれません。

だからこそカプローニは「近眼でもなれる」(夢、志の強さ)、「軍用機ではなく旅客機を作る」(悪い言い方をすれば驚異的な殺りく兵器を作ってしまうかもしれないという恐怖から目をそらす)を二郎少年に説いたんだと思いました。そうして自身の夢に確信を得られた二郎少年は母親に「設計士になります」と力強く宣言しました。

―成人後に現れるカプローニ―
カプローニは震災直後、火事で大変なことになっている大学にも現れ二郎を勇気付け、そしていよいよゼロを作ろうかという時のもまた夢の王国で彼らは出会うこととなります。

ここでのカプローニは夢の100人以上も乗れる旅客機を完成させていました。引退飛行には家族や友人が駆けつけ実に華やかで陽気でそして平和的な雰囲気。対して二郎はそのカプローニに「飛行機は殺りくの兵器ともなる呪われた夢だ」と言われるにもかかわらず、最強の兵器となるゼロを「美しい飛行機」としてカプローニの前に飛んでこさせて見せ、カプローニも「いい感じだ」といいます。

この辺りは二郎の、少年時代からすでに感じていたかもしれない「矛盾」(美しい飛行機を作りたいけど殺りくからは目をそらしたい)がかなり色濃く出始めていると同時に「創造的人生は10年だけ」とプッシュすることでその迷いを断ち切るためにカプローニが姿を現したような気がしてなりません。

一方で二郎はドイツ視察の時に立派な軍用機を見て「旅客機にできないのがもったいない」というあたり、カプローニのような軍用機ではない飛行機を作りたい(純粋に乗る人が楽しめるような)という思いはあったのかもしれません。また政治や戦争に興味がない(あるいは興味を持てない、目をそらしている)のも純粋にいい飛行機をただただ作りたいだけってのは一貫しているのかもしれません。本庄には劇中複数回も「日本はどこと戦争するつもりなんだろう」ってとぼけた質問をしていますしね。

―カプローニ不在の時間、菜穂子との再会―

さて、ゼロ作成にいったん失敗した後休養生活に入る二郎ですがそこで震災の時に助けた菜穂子と再会してやがて恋に落ちました。ここからクライマックスまでカプローニと夢の王国は一切出てこなくなります。
※その代わり謎の外国人カストロプが登場しますが…

これはひとえにカプローニ=菜穂子となったから、かなと感じました。カプローニはこれまで二郎を節目で勇気づけて道を示してくれましたが、菜穂子と恋に落ちて以降は失意から再生し再びゼロ作成にのめりこんでいくようになります。

菜穂子は二郎の最大の理解者ですし、まさに夢の王国に出てくるカプローニと旅客機のような存在だったのではないかなーと。人生で初めてカプローニが必要なくなった時期でもあり、逆に言えば夢の存在でしかなかったカプローニを現実世界で誕生させているのである意味狂気めいています。

難病の菜穂子を本人が望んだこととはいえ入院させずに、結婚までして同棲するという行為に対し、医者の卵となった加代に「菜穂子さんをどうするつもり!?」と怒られたり、上司の黒川に「それはエゴイズムではないのか」と言われてしまう二郎ですが、「僕たちには時間がない」「今を大事にしたい(菜穂子もそう思っているんだし)」の一点張り。

ここは特にまだ学生だった3年前に劇場で見たときは正直ドン引きしました(笑)。そもそも難病にもかかわらず病院を抜け出して二郎に会いに来た菜穂子も大概ですが、そもそも二郎はろくにお見舞いも行ってないですからね(たぶんですが)。ここは客観的に見れば加代と黒川の言うことは本当にその通りだし、二郎はひどいやつだと個人的には思いますねえ。

とはいえ。ここらがきっと宮崎駿監督が「生きねば」に込めた意味だと僕は勝手に解釈しているんですが、「生きる」というのは一体どういうことなのか?どんな状態なら「生きている」のか?カプローニが登場しないこの期間、二郎とそして菜穂子は間違いなく「生きている」と言えるんだろうなあ。ありきたりの意見ですが、「頑張って生きよう」という意味での「生きねば」ではないんですよね、きっと。


―終局 ゼロも菜穂子も失った二郎の前に現れたカプローニ―

個人的に涙腺決壊シーンだった菜穂子が去るシーンを経た後、物語は唐突に終わりを迎えます。夢の王国にまたもや現れた二郎とカプローニ。「創造的人生の10年はどうだったかね?」と語るカプローニに二郎は「最後は散々だった」と答えます。

積み上げられたゼロの亡骸から結局殺りく兵器を作った挙句「一機も帰ってこなかった」=たくさんの人を死なせたという後悔、そして仕事に夢中になっている間に菜穂子を永遠に失ったことへの後悔や喪失感がすさまじく、だからこそまた夢の王国が現れたんでしょうか。

やっぱりカプローニは二郎の希望の化身だと思うのは最後に菜穂子が来てくれたことですね。そして「生きて」と言ってくれる。カプローニも「君は生きねばならん」と言ってくれる。

ここでいう「生きて」も単純な意味での生きるではないことは間違いないですが、これから二郎はどんな風に「生きて」いくのでしょうか。それはカプローニが「ワインでも飲んでいかないか」というようにこれからゆっくり探すのかな。



というわけでカプローニと夢の王国に絞って話をしてきましたが、『風立ちぬ』は実に語りたいところがある面白い映画だと思いますし、かつての冒険活劇ではない点などから賛否両論でしたが、個人的には好きな映画だと2回目で特に思いましたね。

「夢」が何かを暗示したりするのは決して新しい手法ではないと思いますが、このカプローニは本当に何のために出てきたのか、十人十色の解釈ができそうですね。


最後に。公開中の『シン・ゴジラ』ではある人物が「私は好きにした、君らも好きにしろ」と言いますが、もしかしたら宮崎駿監督から庵野監督へのメッセージだったりしてねという妄想をして終わりとしたいと思います。覗いてくれた方、ありがとうございました。

エクス・マキナ ネット全盛の今こそ観るべきSF映画(前篇)

エクス・マキナ



こんにちは。今日はアカデミー賞で視覚効果賞を受賞、脚本賞にもノミネートされた『エクス・マキナ』を紹介したいと思います。


めっちゃどうでもいい前置きですが、僕は先週左太もも裏(ハムストリング)を肉離れしました(T_T)

去年からマラソンをはじめまして今年は飛躍の2年目にするぜ!と息巻いて練習しているわけですが、ちょっとやりすぎましたねえ・・・今は受傷後1週間たって落ち着いてきたのでエアロバイクをのんびりこいでリハビリしているところです・・・

そんな中で本作『エクス・マキナ』を観てきたわけですが、めっちゃ好みでしたー!


予告編


好み度:90点


感想:かなり今時っぽいAIの誕生。内容はむしろ文学的で社会学的で、そして心理学的


※核心ネタバレなし

~ざっくり導入のあらすじ~
大手検索エンジン会社のブルーブックで働く26歳のケイレブ(ドーナル・グリーソン)は社内抽選で見事当選し社長・ネイサン(オスカー・アイザック)の別荘訪問の権利を獲得。ウキウキで自然豊かな別荘に訪れると、そこで彼を待っていたのは社長と助手?のキョウコ(ソノヤ・ミズノ)とそしてAIのエヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)だった。ネイサンはケイレブにエヴァの実用可能かテストに協力を依頼する。


~好きなポイント~

①純粋にストーリーが面白い

まず今作は登場人物が基本的に4人しか登場しません。あらすじであげた4人だけ。しかも社長の別荘という一見広大そうな土地なのに、よく出てくる部屋も片手で数えられる程度。携帯電話もろくに通じないような僻地が舞台でもあるので、ある意味密室モノとも言えます。

どう見てもネイサンはマッドサイエンティストみたいで胡散臭いし、助手のキョウコは明らかに不気味だし、美しきAIは賢くて現状に不満そうだし、ケイレブは見るからに平凡で優しそうだし…ってこれだけ見るとSFもののテンプレートのような人物4人、しかも密室が舞台。じゃあ起きることは単純明快では?


しかし今回はその舞台の狭さや登場人物の少なさ、テンプレ具合とは裏腹に不気味さや疑心暗鬼がどこまでも広がっていくような、非常にミステリアスな雰囲気とホラー映画のような緊張感が絶えず待っている、そんな作品になっています。

まーたSFテンプレのAIが心もっちゃってやっぱAI怖いわ―って量産型SF映画なんでしょ?

と思っているあなた。だまされたと思って観てください(笑)。

まあ確かに終わり方はややスッキリしない部分もあり、少々乱暴な展開も散見されますし、基本的に「AIは人間の脅威になるかも?」的なお話であるのはお察しの通りですが、かなり現代的でまさに今こそ考えるべきというより考えたくなるようなテーマが詰まった作品となっております。そのあたり次項から見ていきましょう。

感想の部分で「文学的」「社会学的」「心理学的」の3つをあげましたが、一つ一つ分解して考えてみます。


②「文学的」な作品?
まず本作は「AI=人工知能」を取り扱った文字通りSF映画ですが、実際にはかなり文系よりな内容だと個人的には感じました。文系というと幅広いので、もっと言えば「人文科学的」ともいうべきでしょうか。

本作は基本的にネイサンがケイレブにエヴァとのセッション(といっても会話するだけ)を依頼し、ケイレブとエヴァの会話をネイサンが別室でモニター越しに観察→試験後夕食をとりながらとか酒を飲みながら試験の感想などをディスカッションするという流れが何セッションか続く構成となっています(もちろんその間に色々とプチ事件が起きるのですが…)。

『エクス・マキナ』は本当にいろんな見方ができる映画で、それらが絡み合って重なり合って観る人によって感じるポイントが違うような化学反応を引き起こしています。その一つとして「愛」の物語ともとれるし、AIとのセッションを通して「感情」を考察する物語でもあります。そして「自分=人間」を発見する物語でもあります。

例えばケイレブも最初は「このAI本当に思考能力なんてあんのか?テストしたろ!」的な、やや「上から」目線で試験に臨むわけですが、エヴァとのセッションを繰り返すうちに「愛情」「同情」「喜び」「悲しみ」いろんな感情が芽生えていくわけです。エヴァ=人工知能を試験しているつもりがいつの間に自分=人間自身を試験していくことになるのです。

面白いのは何回目かのセッションでエヴァが「会話が一方的すぎるんだけど!私に質問ばっかしてないでさー、ケイレブ君のこともちゃんと教えてよ!」と言われることですね。試験内容が「質問」から「会話」に代わるわけです。

そしてその自分自身(=人間)の試験を経た結果、ケイレブが下すある選択とエヴァの答え、その結末はまさに「人間的」で一筋縄ではいきません。この「自分自身=人間との出会い」「人間」故の結末がかなり面白かったと思います。

ぞうそう、AIと人間の交流だと近年『her 世界で一つの彼女』という映画がありましたが、青の映画との決定的な違いは「身体があるか否か」ですよね。

予告編



ネタバレになるので詳述しないですが、今作のエヴァと『her』のサマンサが最後に取る選択って似て非なる、いや全然違うものなんですが、それはまさに「身体を有しているか否か」だと思う次第です。つまり「人間(ヒト?)』になるか『観念(エクス・マキナ風に言うと四角い箱)』になるか?


一方で両者の共通点として人間とAIの「愛」について一石を投じていること、そしてAIが「女性」であることかな?と思います。

『エクス・マキナ』でもケイレブがネイサンに「どうしてエヴァを人間に、もっと言えばなぜ女性にしたの?」と尋ねる場面があるのですが、これについても考えれば考えるほど面白い議題になっていきそうです。

最近はそんなこともないのでしょうけど、一時期恋愛シミュレーションゲームが流行った?時も基本的には「かわいい女の子と恋愛する」がスタートでしたっけね。大学生の時なぜか彼氏持ちの女友達が「ラブプラス」にどハマリもしていましたが…


もう一つ、個人的に好きなAIとの交流を描いた作品を紹介させてください。それは『イヴの時間』というアニメです。

予告編



『イヴの時間』は日本の近未来ですでにAIが実用化され「家電」として流通している設定です。もう人間にしか見えないくらい精巧なアンドロイドたちが普通に街を闊歩しているのです。

公式サイトにも書いてあるようにアンドロイドが人間に反抗するとか、脅威をもたらすといったハードSFではなく、淡々と日常生活が描かれるほのぼの系。この世界観では基本的にアンドロイドは「家電=道具」なので、人間サイドとしては彼らの意識とか思考は別にどうだって良くて、むしろアンドロイドに肩入れしすぎる若者は「ドリ系」といって危惧されちゃうくらい。

先ほどのエヴァが「ケイレブのことも話せ!」とも通じる内容がこのアニメでも描かれていて、AIサイドが人間たちをどう「思う」のか?この辺りがとても繊細に描かれていてやっぱり「文学的」なアニメとも言えます。

何をもって文学的なんだよ?という質問は今更ですが難しいのでお茶を濁すとして(笑)、『エクス・マキナ』はAI側が人間をどう思うのか?そして「身体」を持っているAIが自分をどう認識するのか?この辺りが大変面白いし人工知能を考えるうえでとてもとても興味深いのではないでしょうか。


余談ですが、日本の人工知能研究の第一人者の石黒浩先生の本は面白いのばかりなのでおすすめです。
『アンドロイドは人間になれるか』(文春新書)
『ロボットは涙を流すか』(PHP)



めちゃ長くなってしまったので「社会学」「心理学」は次回に持ち越したいと思います(笑)。

一応、大学~大学院(修士)まで社会学専攻していたので、面白い本も紹介しながら感想をだらだら書こうと思ってます。
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